高森太郎の日記。

高森太郎の日記です。

火葬と土葬と宗教と文化について

まず経緯からまとめから。
まず朝日新聞社の記事
日本のイスラム教徒永眠の地は 土葬の墓、住民ら反発という記事が載った。
これに対して「火葬が推奨されてきた経緯にほとんど触れられていない」などと感じる所があり、はてなブックマークにて

遺体は徐々に腐乱し病原体等が巣食うため感染症予防の衛生問題などもあり火葬が主流に。清塩、家族の49日間の謹慎等はその名残とか。今は適切な処理で問題ないだろが土葬が嫌とは感情以外に昔を知る層がいるのでは

はてなブックマークより引用

というコメントを書いた。

その後id:trivial氏が「人は死ねば土に還る」と題するエントリーを上げた。私はそれに対して

しかるべき場所がなく、適切に行えないないから問題になっていることを、しかるべき場所で適切に行えばいい、というのはちょっと違うような…。事実適切に行われなかったから感染症問題が存在した時代があったわけで
はてなブックマークより引用

とコメントした。

したところ、どうもこれがご理解いただけなかったようで
高森太郎氏の理解に苦しむブクマコメントについてというエントリーがついた。

読ませていただくと、どうも要点として

  • 前提知識の不足
  • メディア情報に対する姿勢
  • 日本語の性質(入れ替えると意味が変わる)への理解
  • 相互理解への考え方

などが原因で理解に苦しんでらっしゃるようなので、できる限り解説することにする。

土葬が火葬になった歴史的背景について(前提知識)

私の解説で分かっていただけるかどうか分かりませんが解説させていただきます。

まず前提知識として。元々土着宗教では土葬とされてきた日本で、何故今火葬されるようになったかという歴史から話さなければなりませんが、そのあたりは地域によって差があるので、事実、事実でないと言った意見を述べられてもおそらく偏りますから、私の地域の例としてお聞きください。

都会などでは明治政府が感染症を予防するために火葬を推奨し始めたのが始まりだとされていますが、自分の地域ではずっと下って昭和30から40年代にかけて、葬儀近代化運動というのが行われました。それはたとえば葬儀の返礼品やら供物やら祭壇やらを質素に簡素化し宗派などを超えて会葬者などのプロトコールを統一しようなど様々な分野に及びますが、一番の柱は公的火葬場による火葬化でした。
先日地元で山奥の寺に併設して火葬場を誘致しよう(結局もっと条件が良いところがあったそうで、ほかに行ってしまいましたが…)という動きがあった時に、たまたま機会があり、勉強会で一通りその時の資料なんかを読んだのですが、当時一番言われていたのは感染症の予防。父に聞いても当時は盛んにそこが宣伝されて、また仏教の僧侶の方まで巻き込んで、そういった話がなされたそうです。

ここでのポイントは、宗教関係者も巻き込まれて話が出来ていたこと。つまりここで宗教儀礼が火葬が基本であるという形で変更されているという点です。

この手の動きは全国でかなりあったようだとお聞きし、近年まで続いていると思われます。自分の地域でも数年前に廃止されるまで火葬の料金の一部を行政が補助する制度などがありましたし、東京都などの大都市部ではそもそも公衆衛生上の理由から土葬は原則禁止(原則、なのがミソで、神道の関係の敬虔な信者の方などで、きちんと墓地などが整っている場合は許可されるんだとか)ですし、もうほとんど火葬が行われなくなった地域ではこういった運動があったはずです。

当該の地域はもう火葬が定着した地域のようですから、私の地元と同じく、公衆衛生の観点から、新しく作られる土葬が出来る墓地は通常の墓地以上に、排水等を別にしなければならない、陥没などの危険がないように、面積がどうの、うんぬんなどの細かい規則だか通達だかがあったはずで(書籍でなにか公的な基準として読んだ覚えがありますが、ネットでは今検索しても出てこないですね…)、この点から土葬は近代的火葬場が整っている地域からすれば土葬を可能にする墓地を作るのは非常に手間がかかる事もあり、さらに言えばきちんとした土葬が出来るような仕組みがもう残されていない等の事情があり(というか最近では隣組等の互助組織による葬儀自体すたれつつありますが…)もうずいぶんと長い間土葬が行われていない可能性があります。

ここでのポイントは、すでに長い間行われていない点から、土葬に関する知識がほとんどなく、また最後に持っている層も、感染症などを理由に火葬に切り替える運動の最中の世代ではないか、つまり火葬が定着した地域では、すでに土葬に対する知識が火葬に切り替わった理由と言う点でしか残ってないのではないか、言うところです。

このあたりは地域土着の文化がありますから、一般的な書籍でももちろん良いのですが、その地域の図書館などにあるはずの郷土史などを参考に、お寺さんなんかに聞いてみるのが良いと思います。こういうのは書籍にせずに地元の人たちで語り継ぐと言うか、寺院や葬儀社、自治体職員の知識に頼ってつわたっている点があって、人に聞かずに調べるのは難しいですが、聞けばだいたい快く教えてくれます。(基本的にお坊さんは理屈を言うのが好きな人が多いので、快くどころか話が止まらなくなって大変なことになる事もありますが)
また、ある程度は、地域の行事や隣組がかかわる行事などに強制的に駆り出されれば、自然と耳にすることもあるかと思います。

もちろんこれは私の地域の話ですが、問題になっている地域も火葬が主流であるということから、だいたい事情は同じではないだろうかと推測します。
(その点で、朝日新聞記事に対するブックマークコメントにもありましたが、そもそも今でも土葬が主流の所に行って作ればいいだろうと言うのも正論だと思います)

朝日新聞記事「日本のイスラム教徒永眠の地は 土葬の墓、住民ら反発」に対するコメントの意図について

さて、以上の前提条件を基にした私のコメント

遺体は徐々に腐乱し病原体等が巣食うため感染症予防の衛生問題などもあり火葬が主流に。清塩、家族の49日間の謹慎等はその名残とか。今は適切な処理で問題ないだろが土葬が嫌とは感情以外に昔を知る層がいるのでは
はてなブックマークより引用

ですが、これは、朝日新聞社の記事に、この手の観点が一切抜けているだろう、という趣旨です。
id:trivial氏はこれを

元の記事のどこを見ても感染症などの衛生問題への懸念から住民が土葬に反対しているという記述がない
高森太郎氏の理解に苦しむブクマコメントについてより引用

とおっしゃっていますが、そういった観点が抜けているよという指摘なのだからなくて当然です。一般的には記事にないことが書かれていれば、それを補足あるいは指摘するものだと解釈していただけると思っていましたが、なるほどこういうふうに解釈する考え方があるのですね。

記事中では、専門的な部分や、歴史的な経緯、地元に土着である宗教儀礼がどうなっているか、公衆衛生上の理由などがほとんど出てこず、いきなり「困惑するイスラム教徒と感情で反対する地元住民」という形に単純化されてしまっています。個人的にあの記事が公正な視点を欠いていると思うのは、最後に都の条例に触れていることから、記事の執筆者がそのあたりを調べたのであろう点です。それを敢えて無視して記事としてセンセーショナルに煽るため単純化しているように感じられました。

そして、イスラム教徒側の主張を中心に記事を組み立てていることから、イスラム教徒側も単純に感情的反対であると考えていて、そういった歴史的経緯を踏まえた説得を行っていないのではないか、という事です。
つまり、イスラム教徒側は歴史的に感情論以外に昔を知り、昔と同じに戻る気かと心配しているのが根本にあるのに

「信仰は大切だと言う世論であり、他の宗教でも尊重すべきだ。かつて○○住職はみとめてくれた。同じように信仰の自由の観点から尊重してくれ」

とか言う説得をしているのではないか、そうではなく

「あなた方は衛生的な理由から、宗教儀礼まで変更して今の形を築いた。しかし我々の教義はそれを許さないから土葬が必要なのだ。あなた方が宗教儀典を変更した当時の理由は、現在では遺体を冷凍保存する方法など腐敗防止・感染症発生防止などの技術は格段に進化しているからかつてと同じではない。だからわれわれは土葬にしたい。われわれは土葬で今でも葬儀をしており、土葬に対する知識をきちんと持っているから適切に処理できる。もちろん法定伝染病などの場合は法にのっとって火葬も含め適切に処理する。後は土地の問題だけなのだ。分からない事は説明もする。だから理解してほしい」

とかそういう説得をするべきではないのか、と。昔を知るものがいるであろうから、今は適切に処理すれば問題ないということを示してきちんと説得すべきだと言う事です。
朝日新聞社の記事中にも「他宗教への理解がない」と言うコメントがありましたが、この記事のように理解がない住民を一方的に感情を基にしているとして置き、イスラム教徒側が困惑している、と言った観点から抜け出せないという事では、他宗教の理解などなく、永遠に平行線のままでしょう。理解していただくために説明するほかないだろうと思います。


メディアの記事を読む時の考え方

id:trivial氏は

元の記事のどこを見ても感染症などの衛生問題への懸念から住民が土葬に反対しているという記述がない
高森太郎氏の理解に苦しむブクマコメントについてより引用

と書いていらっしゃいますが、これは「記者が書いてないことは事実にはない」という考え方なのでしょうか。
私は基本的にそういう考え方はいたしません。
これは新聞だけではなく、メディア全般に言える事原則論ですが、記事や情報そのものを鵜呑みにするのではなく、自分の持っている知識と照らし合わせながら読むのは非常に大切なことだという考え方に立っているからです。メディアリテラシーと言う言葉が言われて久しいですが、完全な知識を持つことは不可能であるにしても、自分の知識と照らし合わせて読むことは非常に重要だと考えます。
そういう点で、私は自分が持つ知識の中から、そんな単純な問題ではないし、おそらくこの記事は射るべき的を外していると解釈しました。

おそらくこのあたりの考え方が理解できていらっしゃらないので、苦しんでいるのでしょうか。

日本語の性質について

id:trivial氏は

「今は適切な処理で問題ない」のなら、「昔を知る層がい」て「土葬が嫌」と思ったとしても、それは「感情以外」の何ものでもない
高森太郎氏の理解に苦しむブクマコメントについてより引用

と書いていらっしゃいますが、これはもっと素直に読んでください。
日本語は(私は語学は駄目なのでわかりませんが、おそらく多くの言語はそうだと思います)順番を入れ替えると意味が変わってしまうので、順番を入れ替えて理解しようとしても、それは意味が違っていますから、当然意味が通らず「理解に苦しむ」のではないかと思います。
ここは素直に「今は適切な処理で問題ないだろが土葬が嫌とは感情以外に昔を知る層がいるのでは」と読んでください。ブックマークコメントに含めるため圧縮していますが、これを解きほぐすと
「今は適切な処理で問題ないだろうが、土葬を嫌がっている感情の問題だけではなく、昔を知る層がいるのだろう」
さらに伸ばすと
「今は適切な処理で問題はないだろが、土葬をやがっている層の中には、感情の問題ではなく、昔を知る層がいるのではないだろうか」
ということです。
これを「今は適切な処理で問題がないが、昔を知る層がいて土葬がいやだから、それは感情以外の何物でもない」などと言うのは明らかに意味が変わってしまいますね。
意味が変わっていますし、日本語としても若干おかしいですから、理解に苦しむのは当然ではないでしょうか。

相互理解への考え方

最後に、私には、id:trivial氏の記事も偏っているように思えてなりません。
何故か。

それは住民側の宗教観などを「感情論」として、イスラム教徒側を「宗教上の理由」として無条件に譲れないものとしているけれども、歴史的経緯から宗教儀礼が変更された住民側の考え方はそれも一つの宗教観であり、イスラム教徒側もある線で合理的な所に寄っていないという点で「感情論」であると言えるのに、それらを相互理解と言う観点からではなく、朝日新聞の記事のように「困惑するイスラム教徒と感情で反対する地元住民」という形に固定してして論を出しているということです。

当然ながらそれでは相互理解は無理ですよね。

日本人は無宗教と良く言われますが、大半の人はそれが宗教的意味がある行動だと気づかずに行動する節があります。ですが、日常に示す行為には宗教を根に持つ行動や摂理がたくさんあります。
日本人はよく、他に比較できる宗教観が身近にないためそれが宗教を基にしているということを自覚しないと言われます。外国から見るとそれは宗教的行動であるという事がたくさんあるとのに、それを宗教系の行動と自覚していないのだと。私も専門的に勉強したことはありませんが、習慣や価値観の出所と、それに対する人々の反応などを見るに、日本は無宗教の国ではないと思います。だた単に一神教ではないことと、近代になって大きな宗教対立に巻き込まれたことないから、宗教行事に対する許容度が高いだけで。

それによってよく、そうした宗教観の考え方の違いを、単なる文化の対立あるいは古い考え方と新し国際的考え方の対立といった形に安易に変換したがりますが、それらも立派に宗教であるということを自覚すべきです。

その点での、id:trivial氏の

住民が土葬に反対するような場所は「しかるべき場所」ではなく、住民の嫌悪感を払拭しなければ「適切に行う」ことにはならない、と言えるかもしれない。※
※が、できればそのような観点は取りたくないものだと思う
高森太郎氏の理解に苦しむブクマコメントについてより引用

は非常に無神経な発言だと思います。「しかるべき場所」という条件に住民の理解を入れないというのは「法的に問題なければ何をやってもよい」と言っているのと同じような発言です。宗教とはそういうものなのでしょうか。そしてそこで「イスラム法に乗っ取ればこれは問題ない」「墓埋法は火葬後の埋葬について定めた法律であり、それ以外の埋葬を規制したものではない」などとして強行して対立をする事もできたはずですが、イスラム教徒団体はそういう道を選ばなかった。それはなぜか。

イスラムの方々は日本の中で別の宗教として生きてきたわけで、日本は決して無宗教ではないことを知っていて、自分が尊重されたければ相手も尊重しなければならない、ということを理解しているからではないでしょうか?そして困っているということをアピールしながらも、宗教的文化的に譲れない考え方を解きほぐして少しずつお互いに理解をしあうことでないと、無用な対立を生んでしまうことを知っているからではないですか。
説得の方向は違うのではないかと思いますが、説得するしか解決は難しく「住民の理解は得られてないが建設を強行する」では解決しない事は十分知っていると思います。

id:trivial氏はこのイスラム教徒団体の行動を全く無視した発言に思えます。「理解」を「嫌悪感」という一点のみに集約して話をしているところも、偏りがあるように思えてなりません。

また

合理的に考えれば何でもないこと
人は死ねば土に還るより引用

とおっしゃっていますが、これはそのままイスラム教徒の方々にも言える事です。
合理的という点にすべて帰するのであれば、近代的遺体の集中処理施設である火葬場という施設が整っている以上、火葬が効率的です。極論高温で焼却してしまえば、ただの灰と骨ですから非常に清潔ですし、腐敗もしませんし、人一人が抱えられるほどコンパクトです。場合によってはさらに高温で処理すれば、すべて粉状にすることも可能でしょう。
しかし、そういう問題ではないからたくさんの人が困っています。また習慣とは怖いものだ、と言ったことで片づけられる問題でもありません。それをこういう論点から極論的に片づけるのは、まして片方は宗教、片方は感情、片方は宗教理論的、片方は非合理的、等と作為的に選択しては問題の本質を見誤ってしまっては、「ちょっと違う」としか言いようがありません。